福禄寿をお祀りしている今戸神社は、後冷泉天皇康平6(1063)年、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)の討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。
その後、白河天皇永保元(1081)年、謀反を起こした清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するにあたり戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ち戦をおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。
戦乱兵火に遭うごとに再建されることしばしばでした。
江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の再建のために官材を下され、船越伊豫守と八木但馬守に命じて寛永13(1636)年に再建がなりました。
大正12年9月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、まもなく復興したものの昭和20年3月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。
こうした被災→再建の歴史をくり返しながら、同46年11月、現在の荘厳な社殿が氏子崇敬者の浄財によって造営されました。
その間、昭和12年7月に今戸の隣地に鎮守されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。
雁神天皇とその母神功皇后は大陸文化を輸入して日本の文化興隆を図られたことでは周知のとおりで、両神の関係は母子の情愛の信仰が古代の日本にあったことのあらわれです。ですから八幡様の信仰は、一般には家運長久の霊験と思われていますが、一方で母がわが子を抱きかかえ、慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としているのです。 伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は、天神の命を受けて日本の国土を創成し、諸神を生み、山海や草木を生したといわれる男女の神で、古くから産霊(むすび)の神として仰がれています。「古事記」や「日本書紀」を見るまでもなく、縁を結び、生産の基盤を固める神として崇められています。
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